産業歯科保健部会 研修会の記録
第2回 産業歯科保健部会 研修会
2008年6月25日(水曜)、札幌コンベンションセンターで開催された第81回日本産業衛生学会にて産業歯科保健部会研修会が開催され、43名が参加した。
テーマ:「口腔保健の評価法」
座長: 尾崎哲則(日本大学歯学部医療人間科学)
森智恵子(日立横浜病院新川崎・大森健康管理センター)
講演:
1)「成人期の歯科保健・予防対策・集団歯科保健の状況の把握・効果の評価」
森田 学 (岡山大学医歯薬学総合研究科 口腔保健学)
2)「「所得格差と3歳児のウ蝕」の研究からみえてくること」
相田 潤 (東北大学大学院歯学研究科 国際歯科保健学分野)
森田先生の御講演では、最近の疫学手法を用いた歯科保健の現状と効果的な歯周病のスクリーニングの取り方、アンケートの論文間の比較や効果的な把握の仕方をわかりやすく、解説いただいた。
相田先生のご講演では、ご自分の研究論文より健康格差と健康の社会的決定要因がどこにあるかを、多くの文献を引用して丁寧に説明された。
企業においても収入格差や事業所の地域性による格差があると推測されるものの、なかなか表にして個々を論じることは困難であり、厚生労働省や部会としても動かなければこのような格差は今後明らかにならず、多方面で検討していく必要があることなどが議論された。
研修会終了後には、北海道歯科医師会の木下隆二先生の取り計らいにより、懇親会が開かれ30人が参加した。地元のおいしい料理やお酒も手伝い、今後の産業歯科保健について夜遅くまで熱く語り明かしつつ、懇親をはかることができた。
事後抄録
1)「成人期の歯科保健・予防対策・集団歯科保健の状況の把握・効果の評価」
森田 学 (岡山大学医歯薬学総合研究科 口腔保健学)
成人期の歯科保健の課題といえば,「メタボリックシンドローム対策」のブームを反映した歯周病対策が中心となっているのは周知の通りである。しかし,全国の歯科医師会会員を対象とした抜歯原因の調査では、20本以上の歯を持っている中高年においては、う蝕による抜歯が歯周病による抜歯よりもはるかに多い。今後の日本人の現在歯数が増加することは明らかであり,成人期の歯の喪失にう蝕が関与する傾向は,一層強まると予想される。う蝕の初発予防にはフッ化物応用が最も効果的であるというEBMはある。ならば,再発性う蝕をどうやって予防したら良いのか。残念ながら,我々はその方法を持っていない。歯周病対策が職域での最重要課題であることに異を唱えるつもりはないが,未解決の問題を忘れないようにしたいものだ。
歯周病対策にしても,集団を対象とした場合の課題が山積している。ハイリスクアプローチの観点から考えると,何よりもまず,歯周病患者の定義が問題となる。我々が「集団の中から見つけたい真の歯周病患者」とはどのような状態の人なのか,明確な基準が定まっていないのではないだろうか。さらに,マンパワーやコストの面を考慮すると,歯科医師による診査は非効率である。そこで唾液中の酵素や潜血を調べる検査法がその代用として考えられており,敏感度と特異度の合計が1.4程度の製品が開発されている。また,質問調査を使ってのスクリーニング方法が欧米で真剣に検討されてきているが,その有用性は唾液検査と同程度であり,それを超えるものまでには達していない。
歯科保健活動をどのように評価するのかについては,真(true)のエンドポイントと代理(surrogate)のエンドポイントのどちらを採用するかで異なる。また,対策費用(cost)に対して,効果(effectiveness),便益(benefit),効用(utility),以上3つのうちのどれを採用するかによっても異なる。産業歯科保健では,医療費や歯科医療費がどれだけ抑えられたのかという便益(benefit)を測るのが多いようであるが,費用(cost)を加味してまで分析しているのは見あたらない。
歯の健康が全身の健康に影響する可能性を示す報告を多く目にするようになった。糖尿病と歯周病が相互に影響し合っていることは、ほぼ間違いではないだろう。最近では,歯周病や歯の喪失が頭頸部癌や肺癌の発症リスクを高めるといった論文までもが国内外からほぼ同時に出ている。このように,歯・口の健康を多方面から捉えて世間に強く訴えることは重要である。しかし,その前提には,歯・口の健康を衛(まも)るための手段が,診療室レベル或いは公衆衛生レベルである程度まで確立されているのが筋というものであろう。適切な対処法がないまま,「歯が大事」と言うのは無責任である。「こうやったら確実に健康が保たれますよ」と胸を張って職場で実践できるようになりたいものである。
2)「「所得格差と3歳児のウ蝕」の研究からみえてくること」
相田 潤 (東北大学大学院歯学研究科 国際歯科保健学分野)
健康較差(格差)が注目を集めている。日本の歯科疾患においても、歯周疾患の職業間較差や、う蝕の地域較差が指摘されている。しかしながら諸外国においては20年以上前から、健康較差は取り組むべき重要課題として扱われ、研究や政策の実践が進んでいた。その中では、健康較差は単なる偶然により差異ではなく、社会的決定により避けられる差であるがために「不公平」とされている。この健康較差を生み出すものが、社会的決定要因(Social determents of health)であり、最新のWHOの委員会報告には「Solid facts(確かな真実)」という副題がつけられ、取り扱われている。こうした健康較差とそれを決める社会的な要因に立ち向かうため「New public health」が提唱され、その戦略として有名なものが、オタワ憲章のヘルスプロモーションである。 健康に影響する社会的な要因の一例としては、例えば職場の環境が挙げられる。20年前には、分煙をしているような会社は少なく、非喫煙者であっても、容易に副煙流の被害にさらされていた。また、いくら健康に関する知識を持っていても,接待の飲み会が頻繁にある会社に勤めていては,1人だけ飲酒や食生活の適切なコントロールをすることは困難であろう。ヘルスプロモーションは、社会環境を変えることで、人々の健康を向上させることを主眼においている。そのため、advocate、mediate、enableという3つの基本戦略を定めている。職場環境を変えるためには、保健職種ではない会社の幹部や社長にもadvocateをして、健康的な職場を推進するための、情報提供と決定をうながさなくてはならない。また、必ず財務部門の反対や、感情的な反発があるであろうから、そうした人々とmediateして、健康的な職場を実現するための折り合いをつけなくてはならない。そして、喫煙場所を屋上に設けたり、健康に良くない食品を値上げすることにより人々の健康的な行動の実現を可能に(enable)しなくてはならない。歯科疾患に限れば、例えば新潟県が3歳児ではう蝕が少なくないのに、12歳児では日本一少ない県になり、地域較差が減少している。これは、学校でのフッ化物洗口のおかげである。家庭での適切な歯科保健行動が困難な子どもであっても、学校に行くだけでう蝕予防になる環境の実現が、こうした地域較差の減少を実現している。定期的に歯科医院に通院できる人々や、健診を受けことが不可能な人々にとっても、健康になりやすい社会の実現がヘルスプロモーションの目指すところである。職域では、健診を受けないような人々をも健康にするような、いろいろな意味での職場の環境改善が、健康を増進するだろう。こうした社会環境の実現は、近年では臨床医の責任ともなりつつある。